スライムさんすこしがんばる

このひまをどのように

怒りの必要性について(もしくは無力感を打ち消すこと)

最近思っていることとこの記事たちが微妙にリンクしていました。

amamako.hateblo.jp
hase0831.hatenablog.jp


怒りの必要性

今まで私にとって怒りという感情はとても縁遠いものでした。この理由は生い立ちとかもともとの性格だとは思うのですがそれは省略するとしても、怒るという経験は思い変えすだに少ない限りです。

高校生活以後、今までに怒りを感じそれを表明したできごとをふたつだけ覚えています。それだけです。そのうち一回はかなりきつく怒りを相手にぶつけました。父親の怒り方とよく似ていて、怒りながらもそれをどこか冷静に自覚できて「嫌だな」と思ったことをよく覚えています。

私はその「いやだな」という気持ちや怒りに対する恐怖感や嫌悪感、そして極めつけには他人への遠慮という志向から、「怒り」という感情や行為を遠ざけていたのだと思います。というよりも、他人への慮りに重点を置いて生きていたら、まず怒りという感情は手に入らないのです。

怒りの感情は、こうしたい、こうしてほしいという願いや期待がかなわなかったり、なぜ私ばかりがという理不尽をわが身に感じたとき芽生える感情です。それはほとんど意思です。翻って言えば、意思がなければ怒りは生まれない。現実を「仕方がない」と諦め受け入れれば怒りなどは湧いてこない。(ちなみに言えば悲しみはその怒りの元の現実を受け入れるしかないときに生まれる感情であると思います)

私自身は怒りから距離を置いてきました。怒りという感情に嫌悪を抱いていたからです。ですがそれは他人との摩擦を避けることで、イコール自分の意思を捨て去るという帰結しか生まないのです。そして意思の欠如は次第に無力感を呼び起こします。


最近思うのは、私は怒りの有用性・必要性に目を向けてこなかったということです。怒りはときとして、現実を変え行動を起こさせる原動力になります。その原動力が健全か否かはこの際さておくとして、怒りや反抗心といったものは衝動です。衝動がなければ、意思がなければ、人は行動することができない。もちろん、もっと質のいい衝動はきっとあります。でも怒りをを捨て去り無力感を得てしまった私にはそれすら持つ能力がなかった。


怒りを取り戻す

それを意識することができれば、怒り―意思を持つのはそこまで難しくはありませんでした。まずは怒りを取り戻すことから始めました。わが身に受けた理不尽やストレスについて適切だと思う方法で打ち返していく。身近なところから始めるのがいいと思いました。なぜなら、切実さを伴うからです。

身近な範囲への怒りは諸刃の剣のようなもので、下手を打てば人間関係の悪化や喪失などの利害が発生することが多いです。インターネットで不特定多数に怒りを表明することとは性質が異なります。だからこそ身近なところで怒りを感じようとする行為は、野放図に怒りをばらまくまいという自分への戒めであり、かつその剥き身のリスクを負っても通したい意思があるということの裏書きになりました。まあ立派なふうに書いてはいますが、実際はしょうもないことが多いのも事実です。

現実を変えていくには

怒りを意識するようになると、たちまち意思が回復しました。他人への怒りの表明の効果(だいたいにおいて生じえない)がわかってきて、そして「では自分はどうするのか」に変化していくからです。そしてそのうち、怒りなどという苦しく切実な手段を用いなくても、自分はどうしたい、どうするの輪郭がわかってくるようになりました。イラついたり、社会に対して怒りを抱くことも減ったように思います。自分を大切にするという感覚を初めて覚えたような気もしています。今まで様々なところで「自分を愛する・大切にする」という文を読んだのですが、どうもピンとこないことが多く、ようやく納得できて来たのでした。

意思を持つことができたのは、友人との会話によるものも大きかったと思います。友人は酒の席でしきりに主張しました。「適切な手段を選び、それを実行すればたいていの現実は変えることができる」と。もちろん変えることのできる現実ばかりではないし、変えることには大きなエネルギーと時間が必要なことがしばしばです。それでも現実は変えていける。特に、日本に住んで衣食住に不足していない私たちは。そういうことを友人と話しました。




閑話休題




今も私は怒りという感情が嫌いです。人の怒りに触れたりするとどきどきして、うまく話せなくなったりします。でも人が意思を持って動いている限り、そういう感情が生じてくるのは避けられない。それは私も同じで、その怒りや衝動や意思を、適切な手段を探して運用法を見つけていきたいと、最近は思っています。おわりです。